初日山 常光寺 臨済宗南禅寺派

常光寺について

臨済宗南禅寺派とは

禅宗は、3つの宗派で構成されており、黄檗宗・曹洞宗・臨済宗からなる。
もともと臨済宗では、総本山を定めず、中国南宗の五山制度を模した形態をとっていました。
1386年、鎌倉と京都にそれぞれ五山制度が定められ、京都五山は、南禅寺を別格とし、一位を天龍寺、二位を相国寺、三位を建仁寺、四位を東福寺、五位を万寿寺とした。
鎌倉五山にいたっては、一位を建長寺、二位を円覚寺、三位を寿福寺、四位を浄智寺、五位を浄妙寺とした。

さらに京都・鎌倉五山の下には十刹諸山が定められたが、以来返還をへて、五山十刹制度は消え、現在の14派本山となった。

現在の臨済宗14派は、妙心寺派・南禅寺派・東福寺派・建長寺派・大徳寺派・天龍寺派・相国寺派・建仁寺派・建長寺派・円覚寺派・方広寺派・向嶽寺派・国泰寺派・仏通寺派に分かれており、各派には雲水が修業する専門道場がある。

常光寺はこの14派の中の臨済宗南禅寺派に属し、南禅寺の禅風は、開山大明国師・創建開山南院国師・開基亀山法皇の三者により確立され、その流れを汲んでいる。

常光寺の歴史

  • 常光寺の開創は古く、奈良時代の初め、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建したと伝えられています。

    平安時代中期の寛治二年(1088)には、白河法皇が本尊・地蔵菩薩の霊験あらたであることを聞こし召されて、高野山に参詣のおりに当寺に参詣されたとのことです。

    その頃は新堂寺と称されていましたが、室町時代の初め康応元年(1389)足利義満が、当寺の住職・通玄和尚に『常光寺』・『初日山』の扁額を奉納されこの時から初日山常光寺と呼ぶようになりました。

    それより前、南北朝時代に、楠正成の家臣・八尾別当顕幸が、当寺にあって大いに南朝のために尽したそうです。その顕幸の墓は、現在も本堂横の墓地に残っています。

    伽藍はその後荒廃し再建されましたが、この付近は、江戸時代初めの元和元年(1615)『大坂夏の陣』の中心地となり、またもや戦乱に巻き込まれました。

    しかし、この寺を以心崇伝が抱え寺としていてため、徳川家康が「寺を荒らすな」との制札を発して、心無い雑兵の乱暴を厳重に戒めたため、寺はなんの被害も受けませんでした。
    この戦いで藤堂高虎は、当寺の廊下で長曽我部家臣の首改めをしたとのこと。その廊下の板は、そのまま天井板に上げ今も残っていますが、一面に血の跡がしみついており、『常光寺血天井』として来訪者の目を見張らせています。
    そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいます。

ご本尊 地蔵菩薩

  • 常光寺の本尊である地蔵菩薩は、寺伝によると平安時代初期の820年頃、六道の辻で衆生を救うお地蔵さまにお会いしてきたという参議小野篁が、今から1160年余りも前に作られたものと伝えられ等身大の木彫立像です。

    袖口の彫りが深く、衣文の表現にも古風な手法がうかがえる。

    古くから「八尾地蔵」と尊称され安産の霊験で知られ、今もその信仰は極めて厚い。
    実際の製作年代は、室町前期と推定されているが詳かではない。

    ご本尊 ご開帳日:毎年4月最終日曜日・8月23日、24日

西の大関「八尾地蔵」

伊勢関の地蔵、大和の矢田地蔵、それに当寺の八尾地蔵が日本の三地蔵と言われています。
元文三年(1738)発行の諸国地蔵尊番附によると、東の大関が関の地蔵、西の大関が河内の八尾地蔵となっており、昔から多くの参詣人を迎えていたことがうかがえます。

諸国地蔵尊番附

狂言「八尾」 八尾の地蔵さん

  • 昔むかし八尾の里の住人で、生前一度も後生を願ったことのない不信者が死んで、冥土に旅立つことになりました。不信者は閻魔大王の審判で地獄に落とされることが心配です。ふと八尾を立つ時に、常光寺の地蔵さんから閻魔大王にあてた手紙を預かっていることに気づきました。 初めは、何がなんでも地獄へ落としてやろうと閻魔大王は取り合わなかったのですが、不信者が必死になって頼むので、手紙を開いてみると、昔なじみの地蔵尊からの手紙でした。

    地蔵尊は「この者の親戚に大変な篤信者がいて、世話になっている。その人に免じてこの者を極楽へやってください」と書いていました。閻魔大王は「八尾の地蔵といえば、昔大変な美僧で、わしとことのほか仲が良かった。その地蔵の頼みとなれば仕方がない」と言って、不信者を極楽へ送るよう取り計らったとのことです。

八尾地蔵通夜物語 巻之1のお話し

難波の里に一人の藪医者が住んでいました。
ある日、産婦が訪ねてくるが、自分は無学愚盲のため、安産に生ませるのが不安でたまらない。

幸い、河内の八尾地蔵が安産霊験ありと聞いていたので、早速八尾地蔵に駆けつけ、安産を請願し、平産した後は、自分の手柄にしようと思い、願望成就の念仏を唱え、通夜篭りをしていると、夜半過ぎ、暗闇の藪の中から大勢の声がしてきたので、藪医者は、てっきり盗賊が現れたかと御堂の梁によじ登った。上から見てみると、その姿は、腹はふくれ、手足は火箸のごとく、まるで妖者そのものであった。

その騒ぎに地蔵尊が現れ、「この夜中に休息を邪魔するのは誰だ。」と。
その妖者どもは、「我々は餓鬼から来た者で、生きている時には、お寺にも喜捨し、説法も聞いたのに、なぜ閻魔王に餓鬼界に落とされたのかと訴えにきた。」という。

すると地蔵尊は、大声で、「自分の利得のためにいくら説法を聞いてもだめだ。そういう根性を直さねばさらに地獄に落とされるぞ。」と一喝されると、その大声で藪医者が梁から落ち、その落下音が天からの大岩石が落ちたのかと妖者たちは逃げ帰った。

藪医者も地蔵尊の話を聞いて、自分も欲心と利得の不如意であったことを痛感し、戒心給わったという。

常光寺を再興した又五郎太夫藤原盛継

  • 盛継像は立烏帽子狩衣姿で、顔にはあごひげを長く伸ばして、額には深いしわが刻まれています。手には扇を持ち、背筋を伸ばして八尾地蔵の脇に祀られています。
    盛継の活躍した時代は、14世紀後半から15世紀初めの頃で南北朝の戦乱により荒廃した地蔵堂(常光寺)の再興に大変努力をした方で、お地蔵さんを信仰しお堂を守っておられました。

    盛継の関係した資材として、常光寺には嘉慶二年(1388)の鰐口(わにぐち)があり、それには盛継が寄付したと記されています。

鰐口

  • 金口(かなぐち)とも言い、本堂地蔵堂の正面下に掛けられ、参拝の際に、吊り垂らした布紐を振って、これらを打ち鳴らすようにしてある。

    中は空洞で、平らな形をしており、下方に大きな口を開いているのでこの名である。

    銅製で直径43・5cm、厚さ13・5cm、重さ18kgの大きなもので、中央に径8cmの複弁の蓮華文をあしらい、周縁部に

    河内国八尾西郷常光寺地蔵之也
    嘉慶二年戊辰三月廿四日
    檀那又五郎大夫
    と陰刻してある。

    又五郎大夫藤原盛継は、南北朝の戦乱に焼失した常光寺の堂舎を復興し、これを寄進したもので、南北朝末の珍しい遺品である。
    現在、大阪市立美術館に常設展示されている。

    <八尾市史より引用>

常光寺扁額

  • 風雨にさらされてかなり荒れているが、文字は極めて雅やかで、やや細めの何となく高い気品と弱々しさを感じさせるが、大きく『常光寺』と記されている。

    常光寺縁起によると、足利三代将軍義満公の筆と伝える。

    義満公は、康応元年(1389)高野山参詣の帰途、常光寺に東堂・首座を訪ね、常光寺復興の有様を見て、用材の安堵を令するとともに、この額を自ら揮毛して寄進したという。

    縦80cm、幅123cmで横書きの大きなものである。

八尾別当顕幸墓

  • 寺伝によると、多田満伸の子・賢快が初め、八尾別当職に任じられ、八尾僧正に称された。顕幸はその十世の孫で、八尾城主として権勢を持ち、後に楠木正成公の八臣の一の家来となり、大いに南朝方に尽した武士であり、権僧正でもあった。

    正成の湊川戦死の後、顕幸は和田・恩智両氏と共に正成の子正行を助けたが、延元三年(1338)八尾城で病死し、この地に葬られたと伝えられている。

常光寺の石地蔵

  • 元は庫裏の玄関前に祀られていたが、今は水子地蔵として水子堂に祀られている。
    総高153cm、像高105cmの花崗岩で造れている地蔵立像である。像の左右に次の銘文が彫られている。

    奉法華千部成就□□阿弥妙法蓮華経
    永禄元年戌午七月廿四日□□□□□□

    敬白

    八尾の史跡より

大坂城の残石

  • 常光寺の境内内側の隅に、130cm角の方形の巨石がある。
    上部に一文字様の陰刻があり、横に「伝ヘ伝、此礎石ハ豊公大坂城造営ノ際ニオケル残石ナリトテ、茲ニ之レヲ用フルモノ也、明治39年建之、文字西郷有志者」と銘があります。
    豊臣秀吉、大坂城築城の際の残り石だそうです。

    現在は、元文部大臣塩川正十郎氏の書かれた「河内最古之音頭発祥地」という石碑がその上に建立されています。

森本行誓宝筐印塔

  • 森本行誓(七郎兵衛貞治)は、久宝寺村の年寄で、林田善右衛門、満田六左衛門、松井源左衛門、杉本孫右衛門と共に、慶長十一年(1606)に八尾に移住し、八尾寺内村の開発や八尾御堂大信寺の建立に尽力した人物である。

    この宝筐印塔は、行誓の百五十回忌の時、子孫が建立したもので、供養は常光寺で行われた。

大坂夏の陣

  • 元和元年(1615)五月六日の大坂夏の陣の合戦において八尾、萱振、久宝寺は西軍の長曽我部隊と東軍の先鋒藤堂隊との激戦地となり、両隊とも多くの戦死者を出した。

    この頃、常光寺は南禅寺の金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎は方丈の縁側で西軍戦死者の首実験をした。現在、その縁側の板は、血天井として残されている。

    藤堂家家臣七十一士の墓は、東面して立ち、前列には高さ90cm、乃至150cmの五輪塔が六基並び、後列には一石五輪塔が肩を並べる様に配置されている。

    前列は右から桑名弥次兵衛・藤堂勘解由・山岡兵部・藤堂仁右衛門・藤堂新七郎・藤堂玄藩ら家臣で、中央の藤堂仁右衛門が最も大きい。いずれもその地輪には、姓諱、事蹟が刻まれている。

    宝暦十四年(1764)戦没150回忌にあたり、その遺族らがあいより、記念碑を墓域西南隅に建てて冥福を祈った。これが勢伊死事碑である。

    このとき藤堂家からは、篆額を賜り、寺には銀千両が寄進されている。
    碑には、東軍の動き、戦死者奮戦の状況、建碑の由来が彫られている。
    阿弥陀堂にはこれら七十一士の位牌が祀られている。

大坂夏の陣「藤堂高虎と家臣七十一士位牌」

血天井

  • 1615年、豊臣方と徳川方における合戦、大坂夏の陣に際して、当寺を中心に藤堂高虎(徳川方)と長曽我部盛親(豊臣方)との決戦の末、長曽我部方戦死者の首を廊下に並べ、高虎が首実検をしたという。後にこれを天井に上げ、血天井として保存されています。

河内名所図会から見る常光寺

享和元年(1801)

常光寺地蔵会の門前の様子が描かれているが、昔から旧暦の7月24日の地蔵会は名高く、河内だけでなく、摂津・和泉からも地蔵尊の善道への導きにあやかろうと、武士・町民・農民・僧侶・山武士など多様な人々がみえる。総門の右手には浄瑠璃が演じられ、その隣に茶屋があり、かんざし・食器・傘などの売る出店もみえる。常光寺文書から、これら縁日に浄瑠璃のほか、おどけ芝居・相撲・小見世物などが行われていたことが知れる。